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やなせたかし・妻との出会いは?子供がいない理由についても考察

アンパンマン

日本を代表する漫画家の一人であるやなせたかし。

アンパンマンの生みの親として知られる彼の人生には、多くの興味深いエピソードがあります。

今回は、やなせたかしと妻・小松暢(こまつのぶ)との出会いや、二人の関係性、そして子供に恵まれなかった理由について詳しく紹介します。

やなせたかし・妻との出会いは?

やなせたかしと妻・小松暢の出会いは、戦後間もない混乱期のことでした。

二人の人生が交差したのは高知新聞社の一室。

そこから始まった深い絆は、やなせたかしの漫画家人生を支える大きな力となりました。

高知新聞社での運命的な出会い

やなせたかしは終戦後、戦友らとともにクズ拾いの会社で働いていましたが、絵への興味が再び湧き上がり、1946年(昭和21年)に高知新聞社に入社しました。

そこで『月刊高知』編集部に配属され、編集の傍ら文章、漫画、表紙絵などを手掛けるようになります。

同じ部署で働いていたのが小松暢でした。

小松は高知新聞社が31人の応募者から採用した初の女性記者2人のうちの1人であり、『月刊高知』の編集者として活躍していました。

やなせは自身の回想で、高知新聞社で小松が自分の前の席に座っていたこと、そして「すぐに好きになった」と証言しています。

二人の上京と結婚

やなせによると、小松は「代議士の秘書になる」という理由で高知新聞社を退社して上京しました。

その約1年後の1947年(昭和22年)、やなせも小松を追うように上京し、二人は結婚しました。

この時期、やなせは漫画家を志すようになりますが、東京での生活基盤がまだ確立されていなかったため、三越に入社。

宣伝部でグラフィックデザイナーとして活動する傍ら、精力的に漫画を描き始めました。

妻・小松暢の人柄

小松暢は「ハチキンおのぶ」「韋駄天おのぶ」というあだ名があったように、非常に気の強い女性でした。

男勝りな性格で、女性だからといって馬鹿にされると「女だと思ってバカにするんじゃないわよ!」と反論したといいます。

また、雷が鳴ると「もっと鳴れ!」と言うほどの豪胆さを持っていました。

家庭では、やなせから「おぶちゃん」と呼ばれていたそうです。

漫画家として成功するか定かでないやなせに対し、「なんとかなるわ。収入がなければ私が働いて食べさせるから」と励まし、やなせも後年「仕事以外はすべてカミさんに頼っていた」と回想するほど、夫婦間の信頼関係は厚いものでした。

妻からの影響

小松は夫・やなせに「正義は逆転することがある。信じがたいことだが。じゃあ、逆転しない正義とは何か?飢えて死にそうな人がいれば、一切れのパンをあげることだ」という言葉で励ましていたと言われています。

この考え方は後にやなせがアンパンマンを創作する際の核心的な思想となりました。

やなせたかし・子供がいない理由

やなせたかしと小松暢の間には子供がいませんでした。

その理由については明確な公式発表はありませんが、いくつかの可能性が考えられます。

戦後の混乱期と夫婦の選択

やなせと小松が結婚したのは1947年、戦後の混乱期真っただ中でした。

食糧難や住宅難など、生活の基盤を作るだけでも大変な時代です。

やなせ自身も「とにかく貧乏は嫌だった」と述べているように、経済的な安定を求めて三越に就職しながら漫画家を目指していました。

このような不安定な状況の中で、子供を持つことを積極的に選択しなかった可能性があります。

当時は今日のような不妊治療も普及していませんでした。

キャリアと創作活動への専念

小松は高知新聞社の女性記者という、当時としては非常に先進的な職業に就いていました。

上京後も、漫画家を目指すやなせを支えるために働いていたことが伺えます。

一方、やなせは1953年に三越を退職して専業漫画家となり、その後グラフィックデザイナー、イラストレーター、詩人、作詞家など多方面で活躍しました。

二人とも自身のキャリアや創作活動に情熱を注ぎ、子育てよりもそれらに専念する生き方を選んだ可能性もあります。

健康上の理由の可能性

公式には明らかにされていませんが、健康上の理由で子供を持てなかった可能性も考えられます。

戦時中、やなせは兵役に就いており、戦争の影響で健康状態に問題を抱えていた可能性もあります。

しかし、これはあくまで推測であり、実際のところは二人だけが知る私的な事情かもしれません。

創作を通じた子供たちとの繋がり

やなせたかしは子供を持たなかった代わりに、創作活動を通じて数多くの子供たちに喜びや希望を与え続けました。

特にアンパンマンは、「困っている人を助けること」「弱い人に寄り添うこと」の大切さを子供たちに伝えるキャラクターとなりました。

実子はいなくとも、やなせの作品は多くの子供たちの心の養分となり、その意味では彼は何百万人もの子供たちの精神的な「父親」のような存在と言えるかもしれません。

まとめ

やなせたかしと妻・小松暢の出会いは高知新聞社での同僚関係から始まり、1947年に結婚に至りました。

男勝りで強い性格の小松は、漫画家を目指すやなせを経済的にも精神的にも支え、やなせの創作活動に大きな影響を与えました。

二人の間に子供がいなかった理由は明確には公表されていませんが、戦後の混乱期における経済的不安定さ、二人のキャリアや創作活動への専念、あるいは健康上の理由など、様々な可能性が考えられます。

子供がいなくとも、やなせたかしはアンパンマンをはじめとする数々の作品を通じて、多くの子供たちに希望と勇気を与え続けました。

小松暢は1993年に癌のため亡くなりましたが、やなせが生涯を通じて創作した作品には、妻から受けた影響が色濃く反映されています。

二人の遺した精神的財産は、今日も多くの人々の心に生き続けているのです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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