アンパンマンの生みの父として知られるやなせたかし。
彼の人生には、戦争によって失われた弟・千尋の悲しみが深く刻まれています。
今回は、やなせたかしの弟・千尋の死因、また、生い立ちや経歴について、彼の短かった人生を詳しく紹介します。
やなせたかしの弟の死因は?
🏃♀️#あんぱんだより🖌
— 朝ドラ「あんぱん」公式 (@asadora_nhk) March 25, 2025
本日放送した「#知恵泉」は #NHKプラス にて見逃し配信中👀https://t.co/J6DGI39ygG
※配信期限:4/1(火) 午後10:44まで
苦難の連続だったという #やなせたかし さんの人生。
ぜひチェックしてみてください👀#中沢元紀#朝ドラあんぱん
📅3月31日(月)スタート🏃
やなせたかしの弟・千尋の死は、単なる戦争の犠牲者としてではなく、一人の若き海軍士官としての悲痛な現実を物語っています。
それでは、千尋の死因と、その周辺に広がる誤解の真相を詳しく紹介します。
特攻隊員として戦死したのではない誤解の背景
長年、やなせたかしの弟・千尋は「特攻隊員として戦死した」と多くの人々に信じられてきましたが、そうではなかったようです。
千尋は特別攻撃隊員ではなく、海軍の通常任務に就いていた士官でした。
この誤解が生まれた背景には、千尋自身が兄のやなせたかしに「特殊な任務」と伝えていたことや、情報の曖昧さがありました。
軍の機密上、詳細を話せない状況が、誤解を招いたのです。
フィリピン沖バシー海峡で戦死
1944年12月30日、千尋は駆逐艦「呉竹」に乗務中、フィリピンと台湾の間に位置するバシー海峡で、敵の潜水艦の攻撃を受けて戦死しました。
艦に発射された魚雷の被弾により、艦橋より前の部分が吹き飛び、千尋のいた対潜水艦探知室は跡形もなく消え去ったようです。
生存者はわずか14名、艦長以下140名が戦死するという悲惨な状況で、千尋は対潜水艦探知という重要かつ危険な任務に就いていました。
遺骨なき最期
千尋の遺骨は戻ってきませんでした。
遺族の元に届いたのは、骨壺の中の木札一枚。
海軍中尉・柳瀬千尋の名前が刻まれただけの、あまりにも儚い形見でした。
やなせたかし自身「チイちゃんは死んだぞね」という伯母の言葉と共に、弟の無念を胸に刻みました。
「まったく見えないところで弟は消えてしまった。名前のように、弟は千尋の深海に沈んだ」と後に記しています。
やなせたかしの弟の生い立ちや経歴について
千尋の人生は、戦前・戦中の日本が生んだ若者の運命を象徴するものでした。
家族の愛、教育、そして戦争という激動の時代を生きた千尋の軌跡を、以下に紐解いていきます。
生い立ちと家族背景
柳瀬千尋は、やなせたかしの2歳下の弟。
2歳の時に父・柳瀬清を亡くし、伯父・柳井寛と伯母・柳井キミ夫婦に引き取られて育ちました。
小さい頃は病弱で成績も芳しくなかったといいますが、成長とともに状況は一変。
中学生になると、柔道2段の優等生へと成長しました。
学歴と海軍への道
千尋は後免野田組合立小学校を卒業後、旧制高知県立城東中学校(現在の高知県立追手前高校)、高知県立高知高校(現在の高知大学)を経て、京都帝国大学法学部に進学しました。
1943年9月に大学を卒業後、海軍予備学生として神奈川県武山海兵団に入団。
わずか4か月の速成教育を経て、海軍士官の道を歩み始めます。
その後、対潜学校で専門教育を受け、1944年5月に海軍少尉として任官しました。
海軍士官としての最期
千尋は駆逐艦「呉竹」の水測室分隊士として、東南アジア方面の船団護衛任務に従事。
敵潜水艦を音で探知するという、生命の危険と隣り合わせの重要な任務に就き、22歳という若さで命を落とすまで、千尋は国のために献身的に働きました。
その姿は、やなせたかしの心に深い傷と共に、強い想いを残しました。
まとめ
今回は、やなせたかしの弟・千尋の死因、また、生い立ちや経歴について、彼の短かった人生を詳しく紹介しました。
千尋は、戦争という悲劇の中で短い人生を閉じました。
特攻隊員ではなく、国のために任務に向き合った海軍士官でした。
その無念は、やなせたかしの創作活動、特にアンパンマンの精神に大きな影響を与えました。
「困っている人を助ける」「自分を犠牲にしても他人を守る」というアンパンマンの精神は、まさに千尋への鎮魂歌とも言えるのではないでしょうか。
千尋の死は、戦争の非人間性と、若者の命の尊さを私たちに教えてくれました。
やなせたかしは、弟の分まで精一杯生き、多くの子どもたちに希望と勇気を与え続けたのです。
▼「チイちゃんは死んだぞね」という伯母の言葉は【アンパンマンの遺書】に記されています
▼フィリピン沖バシー海峡をめぐる真実の物語が【慟哭の海峡】に描かれています
最後までお読みいただき、ありがとうございました。